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佐藤泰志の小説&映画の函館三部作のひとつです。
ちなみに『海炭市叙景』『そこのみにて光り輝く』『オーバー・フェンス』の「函館3部作」の一作目の映画である。
暗い、とても暗い物語です。
全体的にも暗いです。夜に見るのはおすすめできません。落ち込んでいる時にも見ないようにしてください。
そこのみにて光輝くの3行あらすじとネタバレ
注意※三行で結末まで書いてます。
そこのみにて光り輝くのあらすじとネタバレと感想
それではネタバレと感想です。
まずは綾野剛がパチンコ屋で池脇千鶴の弟、菅田将暉と出会う。
菅田将暉がそのまま家に連れて帰ったところに、池脇千鶴が居て出会う。
連れてこられた家はバラック小屋もいい所で、水道が通ってるという事は家として認識されているんだろうな・・・というようなバラック小屋。
池脇千鶴の父親はアルツハイマー型認知症+脳梗塞の後遺症で寝たきり。
家族で介護をしているが、映画ではうなり声だけが聞こえてくる。
そのうなり声は性欲がお盛んなため。
しかもお父さんの性欲は池脇千鶴が世話をしている(衝撃1)。
母親は性欲を抑える薬を父親に飲ませている。母親はその薬が余計に脳をダメにする(脳を使う事を止めてしまう→寝たきりに)ことを知っていながらも飲ませているのが闇。
(この薬は「うぉううぉう」といううなり声を抑える薬だが、効果がある分だけ寝たきり一直線になる。つまりは死に向かっていく薬であるため、家族は使うのを戸惑うそうです。しかし耐えられないほどのうなり声です。)
池脇千鶴は薬を飲ませるのが嫌なので、自分を差し出して父親の性欲を処理させている。この辺りが家族の闇。
そして池脇千鶴は一人で、家族の生活を支えている。昼間はパート。夜はちょんの間のような所で一回8000円(衝撃2)。
綾野剛(無職)、うっかり池脇千鶴を買ってしまう(笑)
そしてそこから二人のお付き合いが始まる。
途中で「毎日会社行って、居る所がないんだよね。そーゆーのわかんないでしょ?」
と池脇千鶴が言う。
多分、差別されて色眼鏡で見られてどこに行っても居場所がないのに、毎日好奇の目で見られ蔑まれながら生きるしかなくって、最低時給しか貰えない気持ちがわかる?
と言いたかったんだろうけど、そこまで底辺ではない我々からすれば、
「嫌ならなぜ努力しない。嫌なら家族を捨てて一人でどこかに行けばいい!」
と自分目線で考えてしまって、そこまでの場所まで下りていって気持ちや状況を想像できないんだよね。
自分より上は容易にあれこれと想像できるが、下の者の生活ってのは無意識にかなんか解らないが、人間なかなか自分よりも下の生活は想像できない。
それは恐怖からなのかもしれない。
上を見るのにも当然限界はあるが、下を見る限界はとても深そうでいて、簡単に落ちてしまいそうで、恐怖を連想させてしまい、想像することを拒否するのかも。
「そんなはずない。」「そんな家はない。」「そんなことはないはずだ。」という無意識の思い込みがまた差別を増長させてしまうのか。
一方、菅田将暉は仮釈放中なので、とにかく仕事が決まらない。
そこでジモティのマイルドヤンキーの虎(検索してみるとおもしろい)である植木屋というか庭師の会社で、アルバイトをしている。
そのマイルドヤンキーの虎がまたえげつない糞である。
池脇千鶴をいいように性欲処理として使い、罵倒する。
というか池脇千鶴の家族全員を罵倒する。
そして自分の家族にはいい顔しか見せない、昭和時代の糞男そのもの。
今時、こんな男まだ居るのだろうか?
ちなみにこの糞男は元男闘呼組の高橋和也。
最近よく見ますよね。若いころから顔が全く変わっていません。
糞男はののしりながらも、「お前が居ないとダメなんだよ」とか縋り付きます。
縋り付いて拒否されると罵倒して殴ります。
自分の感情を整理せずに女にただ受け入れてもらいたいという子供のような欲求をストレートに池脇千鶴にぶつけます。
普通の人はそんなに自分の傍に居て欲しいなら、段取りを取り、ちゃんとした手順を踏みますが、そんなところはすっ飛ばして全部見せて、それでも相手に受け入れて欲しいとせがむ姿は、女からすれば興ざめ以外の何物でもありません。
(しかし男からすれば母性そのものなんだそうですよ)
そんなわがままが通用するほど、女は馬鹿じゃない。
受け入れたら受け入れただけ調子に乗るのもセットだしな!
とことがどっこい、こういう受け入れるしかできない女って男から見たら一種の理想の女らしい。
どこまでも甘えられて、カッコつけなくていいし、本能で接することができるんだって。魂のぶつかり合いなんだって。私はごめんだけど。
だから娼婦に入れあげる男が居るんだな。
だからといって、娼婦じゃなけりゃ本妻に・・・とは思わないんだろうな。
どこまで行っても使い捨て扱いなのに、どうして受け入れてもらえると思うのだろう。
永遠の謎だ。
綾野剛は池脇千鶴に絡みついた腐ったひもをひとつひとつほどいていこうとするのだが、
菅田将暉がマイルドヤンキーの虎に池脇千鶴のことを馬鹿にされて刺してしまう。
この感情が抑えきれなくて行動している感の演技は鳥肌物。
刺すばっかりじゃなくって、刺したところを蹴り上げて欲しかったのは私だけか。
綾野剛が無職の理由は、岩山をダイナマイトで壊していく仕事だった時に、あやまって人を死なせてしまったから(トラウマ)無職だったわけで、
実入りのいい仕事だけに、また来いよ!というお誘いもありつつ、菅田将暉が目を輝かせて「俺も連れて行ってくれよ!」といわれつつも、
池脇千鶴の家族を救うために、仕事に行く段取りもしてたのに、まさかここでこいつが我慢できなくなって刺すなんて。
という所で、さめざめ泣いている母親、こんな時にも相変わらず性欲の強い父親を池脇千鶴が殺す直前で、綾野剛がやってきて泣きながら海辺を歩く。
そこで終了。
これな、「え?ここで終わり?」って思ったけど、どうもふたつの小説を合わせた映画らしい。
原作は佐藤泰志の小説「黄金の服」。
小説は二人が結婚して子供ができてからの、刺す事件だったよう。
ちなみに『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』『オーバー・フェンス』の「函館3部作」の二作目の映画である。
うーん。映画を見ながら思ったのは
家族全員が自立してないと、この先のこの世の中はやっていけないな。
と思った。自分ちに照らし合わせるとそうなる。
例えば、誰か一人がバランスを崩しても皆が自立してれば少しづつ助け合えるけど、一人が初めから自立を拒否している、または自立できないと家族中が一人を助けないといけない。
そもそもそこが貧困家庭の入り口な訳だと思う。
ひとりひとりが、一人暮らししてもやって行けるような人が集まればいいが、
誰か一人に働く気持ちや働く「頭」がないと必ず寄りかかられる。考えることを放棄しているような人には近づくと、必ずやけどする。
どうにかしてあげたい気持ちを吸い取られるだけなのに、「家族」だからと無償で世話していかなくてはならない。
あー、もうな、ずっと子供の送り迎えしてきたんだから!って子供に将来見てもらおうとしている人とか、ちょっと自立を考えた方がいいわよ。
恩を着せたから面倒見てよ。ってのは昭和で終わりだから!
だいたい、人の面倒見てきたから、その人に見てもらおうなんて考えてる時点でアウトだろう。
つまり、そういうのは普通の人は無償の愛で、自分がしたいからしてる事なんだよ。
この映画は昭和ノワール感がそのまんま。という感じの映画でした。
ちなみに子供は見れない。見てはいけない。
どうでもいいけど池脇千鶴のスタイルが良すぎてクラクラしちゃう。
菅田将暉が多分、自分を捨てきって役になりきっているのが凄い。
怒りの演技に鳥肌立つ。
色んな意味で衝撃的な映画でした。
落ちてしまう度・・・★★★★☆ 星4つ