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汐見稔幸さんの本当は怖い小学一年生の続きです。
小学一年生はさらさらと読めたので、この本も読んでみました。
今回の感想文はざっくりと要点だけ書き記しておこうと思います!よって、さらさらと読んだ気になれるはず。
「天才」は学校では育たない 3行あらすじとネタバレ
注意※一行で結末まで書いてます。
「天才」は学校では育たないの要点と感想
目次
第一章 子供と親が、学びの場所を選べる社会
多様性を認めるにあたって、国も学校を休んでよい事になった。
それでも未だに、「学校へ行けない」「学校に行かない」というのはマイナスなイメージが付きまとい、学校へ行かない子はなんだか自分が悪いみたいな自己嫌悪に陥ってしまう事を書いています。
どんなに何かに秀でている人でも、学校で天才が育ったわけではなく、才能を親や身近な人が発見して伸ばしてやるように誘導しなければ『やり方がわからない』子供は秀でてきません。
まわりに『やり方』を教えてくれる人が居ればいいが、学校の先生は指導ができない、手が回らないなどの理由から才能を潰し続けるので、たまたまやり方を教えてくれる、誘導してくれる人が居た子どもしか発揮できなかった。
「こうしたい!」というのを徹底的に潰してきたから、分からないと言い続けたら、そのきっかけになるヒントすらもわからないまま子どもはそれ以上進もうとはしないからだ。
ここで、「そんなことはない!エジソンは~~~」と言う人は、「では、あなたは何物になっているのだ?」と声を大にして突っ込みたい。
思うんだけど、嫌なら学校は行かなくていいよ。
好きなだけことを好きなだけ満足いくまで勉強できる環境さえあれば、協調性や規律ってのは後から付いてくるんじゃないかな。
また、塾に通ってすごく賢い子で運動もできる子が、学校の勉強がつまらないからという理由で学校では寝てばっかりだったという話も書いていました。
その子は、学校にさえいっておけば義務教育の『義務』を果たしているから行っていたのに、熱血教師が徹底的に潰してしまって学校に行かなくなったということでした。
熱血教師は、その後のその子の人生を潰しにかかったわけですね。・・・・一方通行の熱い想いで(笑)
教師が色んな方向から見れる万能な大人だと思ってたら痛い目に合うよ!
ここからは私が思う事。
思うんだけど、そういう出来過ぎて学校の授業がつまらない子は、クラスのできない子を少人数集めて教えるという学校の授業にした方がいいと思う。
義務教育は学力の底上げなんだから、双方にメリットがあるだけでなく教師も学校もメリットがあるだろう。
しかし、教え方が悪いと教えられた子の親が噛みつくのでしょうか?教師もそんな親から賢い子をかばうのが面倒くさいのでしょうか?
この辺もっと臨機応変にした方がいいでしょう。
遅すぎて、窮屈な思いをしている子沢山いますよ。
第二章 公教育か私教育か
外国の例を出し、公的に幸せになること(仕事や学歴など)と個人として幸せになること(生きがいや好きな事、自分の理想や居心地を良くする努力)を書いていました。
私は思うのですが、個人として幸せになる事をもっと考える授業があってもいいのではないでしょうか?
あんまり日本って「自分を好きになる」「自分の感情を大切にする」「自分の意志を強くする」ための教えみたいなのって言わないよね。
ふたつのバランスがまじりあってこそ本当の幸せが掴めるんだけど。
「ひとつの事だけじゃなくって、色んなことができないといけないのは大変!」という親は沢山いるけど、昔はそりゃそれでもいけてたけど今現在社会に出ている人はそれこそなんでもやってると思うんだけどな。
でもなんでもできるってのは『しなやかに強くなる』ってこと。ここ、私の目指す教育です。
ところが、感情的な事ばかり言ってる人は感情に囚われて、あまり公的には幸せではなかったり、公的に幸せな人はマニュアル通りの休暇しか味わえなかったりってバランスが悪い。
日本で、急にひと月バカンスしてきて!って会社に言われたら、ほとんどの人が戸惑うし充実したバカンスを味合わなくっちゃ!ってガイド読み漁ったりするんじゃない?
結局人に言えるバカンスひとつして、後は何もせず・・・みたいな(笑)
暮らしというか、人生のバランスが悪いよなあ。臨機応変に楽しめばいいのにって思うけど、それができないんだろう。
私はもっと人生を堪能したいよ。
第三章 学びとは自分を知る事
親ができることは、「こうしなさい」「こうなって欲しい」という事に対して、継続してチャンスを与えていくことである。
こちらがわの世界に入ってしまうと、こんなに面白いことがあるんだよ!というのを見せつけるのもいいし、子供が理解した瞬間に火が付くだろう。
だいたい、男の子は10歳~13歳の間に学びの火が付き、これまで何を言ってもしなかったような勉強をものすごく掘り下げて勉強しだす時が来る。
それまで、計算が遅い、字が汚い(これは直らない子も)、何にも勉強が頭に入っていないパッパラパーな男の子たちがそれまで馬鹿にしていた女の子たちを、筍のように抜いていくのはこの原理にかなっている。
だからこそ女子は「コツコツ」型で、諦めない子がそのまま伸びていくのです。
が、しかし、親や周りの人が勉学の楽しさを記せない人だったらどうでしょう?
「みんなが行かせているから」と言って薄っぺらい学習塾に行かせたり、「手厚いから」と言って優しい塾に行かせて受け身な体制を万全にしていると、『自分からは勉強しない子』になってしまいます。
欲しいのは【自分から学ぶ姿勢を定着させる】力であり、【納得できるまで追求する力】ではないでしょうか?
納得するまで追求する力が出てくれば、親が適切な指導をして伸ばすというのが子育ての神髄だと思います。
学びとは自分のできる限界を知り、自分がしたいことに対していかにカバーしながら自分の知識を埋めていくか。ではないでしょうか?と私は思う。
そして汐見さんは言います『学びとは、他者、自分、世界への知を串刺しにするべき』と。
自分の学びと、社会が繋がってなくては学びを発揮できません。
そして、社会と繋がるという事は他者と繋がること。なのでこの三方をまとめて見れなくては日の目は見れないという事だと思います。
学ぶことに対して、知的欲求を満たすように誘導することが親の義務ではないでしょうか?
例があったので、載せておきます。
「小3の男の子が冷蔵庫に入れていた魚が腐った。冷蔵庫に入れているのにどうして魚が腐るのか?」
保健所に行って質問したり、図書館に行って調べたりと親はそんな誘導だけしていけばOKなのです。
ここで、siriに聞いてみな!というのでもいいと思いますが、とにかく疑問を一歩進ませることが大切です。そしてもっと追及させていくには、「保健所」「図書館」などのキーワードを親が持っているかどうかだと思います。
それが子どものもって生まれた能力で、親が伸ばしてやれることです。
押し付けはNGなのです。
押し付けられたものがどれだけ嫌なのか親も知っているでしょう。自分がされて嫌なことは子どもにもしないことです。
第四章 求められる「資質・能力」とは
ずばり、アウトプットです。
まず他者を理解して、自分の感情を同じように理解してもらうという所から始まります。
これからは、たえず模索していく生き方がメジャーになり臨機応変に対応できる人が基本になっていくのに、〇〇だけしていればいい、〇〇の資格さえ取れば生きていけるから。という生き方では必ずといっていいほどくじけてしまいます。
「問いと問いの間」のプロセスを大事にしていくことで、これからの知性は磨かれるという事です。
これは授業中にソワソワしている子は、問いと問いの間の何かを知性としてストックし、自分の中で発酵させているという事ですが、私にはよくわかる。
というか、その問いと問いの間に挟まって自分の中で熟成させたからこそ自分の中での絶対が作られて行き、確実に近くなる感覚。
これを授業でやるなら、先生が面白い授業をした次の授業で「何がわかったか、そして何がひっかかったか」というのをランダムに当てていけばみんなも授業をよく聞くようになり、自分の中で発酵させていくんじゃないでしょうか?授業の初めに前の授業の復習をし、次の授業に入るという事を繰り返すことで改善できそうな気がする。個人的に。
そして実は小学校四年生までの勉強でで生きていくスキルは身に付けられているのです。よく言われていた「読み書きそろばん」ですね!
特に数学はラジカルな問いが沢山含まれているので、考え出すとまるで哲学みたいです!
しかし、授業では公式を頭に入れるだけでいい。みたいな教え方するからいけないんだろうな。
そしてアウトプットするには、知識の貯め込み、そして心の余裕、そして無駄な情熱(個人的意見です)が必要と書いてあります。
知識の受け止め、発酵、そしてアウトプットと時間をかけて大切にしていきたいはずの学びが、詰め込み教育になっているという矛盾(笑)
せめて家ではまったり発酵させてあげる時間を堪能させてあげたい物ですね。難しいけど。
余裕がないと新しい事なんて受け入れられないのは親も同じなのにね。
こういうのが【深い学び】になり、忘れない、絶対的にこれからも活用できる学びなんだと思う。
第五章 低成長時代の正しい弱さ
高度成長時代の偏ったテンプレートから離れられない大人たちに育てられる子供には、大人たちから見ただけでは分からない可能性がある。
新しい物を拒否しかできない大人に育てられた子の中でも、やっぱり「自分はこうしたい!」というものがある。
草食系男子や、スーパー中学生などがこれからの日本を変えていく。
大人たちがこれからの未来を確定できない今の世の中では、これからの子供が新しいテンプレートとなって行くという事を伝えています。
思うんだけど、あのyoutubeの不登校の小学生(中学生?)も、余力のある人が全力で叩いてるけど、なんで認めてやらないんだろうと思う。学校でしか得れないようなものもあるかも知れないけど、叩いてる人は多様性を認めることができないんだろうなぁ。
そういう人に限って、自分の子供が障害とか持てば掌返すのもセットでしょう。
ちょっとづつでも認めて行けばいいのに。
新しい物を拒否してきた親に育てられた子でも、自分の考えを発酵させてくるかも知れない。
汐見さんは言う、スーパー中学生も草食系男子も支配下の外で産まれていると。
今はネットもあるし、多種多様な生き方のコミュニティが見つけやすいし入りやすいので、そういう人たちも生きやすい世の中になってほんと良かった。
できれば私の子供時代にネットが欲しかった・・・と思うのは、子供時代理不尽な大人たちに押さえつけられてきて、閉じこもるような青春時代を過ごし(?)常に「世の中が遅いよ!」という心の叫びを発酵させてきた私だから思うのか。
いずれにせよ、この本を読めば
【この支配からの卒業】
ができる訳です。
支配の中で上手くやれなかった子をトコトン排除して、無かったことにしてきた世代に逆襲をかけるのではなく、手を差し伸べてやるという理不尽な中に居る、今の子たちに感謝するべきである。
汐見さんの本と柳沢教授の漫画は、いつも私をやる気にさせてくれるから好きだ。
想像を熟成させて世の中に出している人は沢山いますが芸術品を始め、作家もそうでしょう。そして一番に思いつくのは嶽本野ばらです。
(よく、汐見稔幸の本で大学のレポート書いてください。というお願いが来ますが、そういった商売はしていないので勝手にこのサイトからパクってください。感情だけで適当に書いているので責任は持ちません。)
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